日本史 · 2024/09/08
藤原冬嗣の死後、権力を握るのが藤原良房であった。この時期は藤原氏の権力独占ではなく、橘氏と伴氏といった有力貴族が藤原氏と対立する立場にいた。当時の天皇は嵯峨天皇の子・仁明天皇であったが、藤原良房は権力者である橘逸勢と伴健岑が「仁明天皇を政権から追放しようとしている」というデマを流し、これを信じた仁明天皇は、謀反を企てたという罪で両者を配流されたという事件。
2024/09/07
天皇は桓武天皇から平城天皇、そして嵯峨天皇へと引き継がれた。嵯峨天皇は即位後、平城京に再遷都しようとする兄の平城太上天皇と対立。「二所朝廷」と呼ばれる政治的混乱が生じた。双方の対決は、嵯峨天皇側が迅速に兵を展開して勝利。平城上皇は自ら出家、上皇の寵愛を受けていた藤原薬子は自殺、薬子の兄の藤原仲成は射殺された。これにより藤原式家は没落した。嵯峨天皇は天皇の機密文書を守るために、蔵人という令外官を置き、蔵人所という役所を置いた。そしてその長官である蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣を就任させた。ここから藤原氏の中心は式家から北家へと移っていく。
2024/09/06
道鏡は称徳天皇の支持を得て、太政大臣禅師、さらには法皇となって権力を握り、仏教政治を行った。しかし称徳天皇が病に倒れると道鏡は、豊前国の宇佐神宮で「道鏡を天皇にせよ」というお告げが出たというデマを流した。朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、事の真偽を確かめたところ、嘘が発覚したという事件。結果、道鏡の天皇即位計画は挫折したが、和気清麻呂も流罪となった。ただ、翌770年、称徳天皇が亡くなると、道鏡は力を失っていった。
日本史 · 2024/09/05
藤原仲麻呂は恵美押勝の名を賜り、大師にまで登る。しかし後ろ盾であった光明皇太后が死去すると、孝謙太上天皇が自分の看病に当たった僧の道鏡を寵愛し、淳仁天皇と対立したので危機感をつのらせて挙兵するも、太上天皇側に先制され、滅ぼされた。淳仁天皇は廃されて淡路に流され、孝謙太上天皇が重祚して、称徳天皇となった。
2024/09/04
聖武上皇が亡くなったことで橘諸兄の権力が弱くなり、再び藤原氏が台頭してきた(光明皇太后の影響)。中でも藤原武智麻呂の子・仲麻呂が権限を強め、これに不満を持った諸兄の子・橘奈良麻呂が藤原仲麻呂の排除を計画したが、失敗に終わり、逆に橘奈良麻呂は捕らえられた。これにより、藤原氏の権力は絶大なものとなった。...
2024/09/03
権力者・橘諸兄が登用した吉備真備や玄昉に対し、藤原宇合の子・藤原広嗣が2人を政界から追放しようとして起こした反乱。しかしこの乱は鎮圧され、広嗣は亡くなった。 天皇は聖武天皇。権力者は橘諸兄。
日本史 · 2024/09/02
長男・藤原武智麻呂(南家)、次男・房前(北家)、三男・宇合(式家)、四男・麻呂(京家)の藤原四兄弟が、天武天皇の孫で当時の権力者・長屋王に、謀反の罪を着せて自殺に追い込んだ事件。 天皇は聖武天皇。権力者は藤原4兄弟。
日本史 · 2024/08/03
671年、天智天皇死去。後継者は天智が太政大臣を任じた子の大友皇子であったが、天智に反発していた勢力が力を増し、天智と腹違いの弟の大海皇子を推し、翌672年に大友皇子と大海人皇子との間で、後継者争いが起こった。大友は内部不統一もあって、対応が遅れ、大海人が勝利し、天武天皇として即位した。
日本史 · 2024/08/02
660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼした。百済と友好関係にあった日本は、救援に向かい、663年に白村江にて、唐と新羅の連合軍と戦うも敗れた。
日本史 · 2024/08/01
645年、中大兄皇子が中臣鎌足と協力して、大極殿で蘇我入鹿を暗殺した。入鹿暗殺を知った父・蝦夷は自分の宮殿で自殺した。この乙巳の変からその後の政治改革までを大化改新という。

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