日本史

日本史 · 2024/10/29
赤穂藩主の浅野長矩が、江戸城中で高家の吉良義央を斬りつけた事件。この事件で浅野長矩は切腹。吉良義央はおとがめなしだったため、浅野の家臣が不満を持ち、翌年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入りし、義央を討った。「忠臣蔵」としても有名な事件。
日本史 · 2024/10/28
1651年に、徳川家光が亡くなり、4代将軍は、家光の子で幼小の徳川家綱が就任した。 初代将軍の家康から3代将軍の家光まで、武力で幕府に従わせる強硬な武断政治をおこなっており、多くの大名が改易され、大名家の取りつぶしが頻発した。その結果、牢人(失業した武士)が大量に発生した。...
日本史 · 2024/10/26
1637年、九州の島原地方で益田時貞(天草四郎)を首領とした3万8千人のキリシタン農民が天草領主の寺沢氏と、島原城主の松倉氏の圧政に反抗して起こした反乱である。農民たちは原城跡に立てこもるも、老中・松平信綱に1年後に鎮圧された。
日本史 · 2024/10/25
征夷大将軍となった徳川家康は、将軍の地位を僅か2年後に息子の徳川秀忠に譲り、自らは「大御所」として、そのまま実権を持ち続け、豊臣家を滅ぼすために動き出した。 戦いを起こす口実であるが、家康は家康はその理由を豊臣家によって造営された方広寺の釣り鐘に掘り込まれている文字を理由とした。...
日本史 · 2024/10/24
織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康は、豊臣政権下の1590年、北条氏滅亡後の関東に移され、約250万石を支配する大名となった。五大老の筆頭にあった家康は、秀吉の死後に地位を高めた。...
日本史 · 2024/10/23
1597年、豊臣秀吉は14万余りの兵で、2回目の朝鮮出兵を行った。しかし朝鮮も万全の体制を整えていて、日本は最初から苦戦を強いられ、翌年、秀吉の病死により撤退した。 前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を戦渦に巻き込み、多くの被害を与えた。また国内的には、膨大な戦費と兵力を無駄に費やす結果となり、豊臣政権を撤退させる要因となった。
日本史 · 2024/10/22
1587年、豊臣秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対して入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣を築き、1592年、15万余りの大軍を朝鮮に派遣した。あっという間に漢城・平壌を占領し、更に加藤清正の軍勢は朝鮮と朝鮮の国境辺りまで進軍した。...
日本史 · 2024/10/21
関白・太政大臣に就任した豊臣秀吉は、天皇から日本全国の支配権を委ねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉に任せることを強制した(惣無事令)。...
日本史 · 2024/10/20
1584年、羽柴秀吉は自分の権力に反発した織田信雄(信長の次男)・徳川家康と尾張の小牧・長久手で戦ったが、和睦に終わった。当時の有力大名であった徳川家康と和睦できたことで、秀吉の権力は絶大なものとなった。...
日本史 · 2024/10/19
明智光秀を破った豊臣秀吉は、翌1583年に信長の重臣で有力な後継者候補であった柴田勝家を賤が岳の戦いで破り、北陸を平定した。光秀、勝家という織田信長の重臣を次々と破ることで、秀吉は信長の後継者としての地位を確立し、同年に壮麗な大坂城を築城した。

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