日本史

日本史 · 2024/09/18
鳥羽法皇が亡くなると、法皇の持つ絶大な権力を継承したいという後白河天皇と崇徳上皇が次の院政をめぐって争いを行った。保元の乱である。この両者に、兄弟で対立していた藤原摂関家では、鳥羽上皇と関係が悪かった弟の藤原頼長が崇徳上皇につき、兄の藤原忠通は後白河天皇に接近した。源氏では、父の源為義と弟の源為朝が崇徳上皇側に、兄の源義朝は妻の父のいとこが鳥羽上皇の乳母だったため、後白河天皇側についた。平氏の中では鳥羽上皇に重く用いられていた平清盛が後白河天皇につき、清盛の叔父の平忠正は崇徳上皇側についた。戦いは先手を打った後白河天皇側が勝利した。源為義は子の義朝の手で処刑され、平忠正は甥の清盛によって処刑されるという残酷な結末に終わった。
日本史 · 2024/09/17
白河上皇が出家して、白河法皇になった頃、出雲(島根県)で反乱が起こった。源義親の乱である。源義親は後三年合戦などで活躍した源義家の子である。この乱を鎮圧したのが、平正盛である。当時、武士として力を持っていた源氏を倒したことから、平正盛はものすごく評価され、白河法皇にも重用されるようになった。
日本史 · 2024/09/16
1083年に始まった後三年合戦は、清原氏の内紛が発端となった。この戦いに勝利したのが、清原氏の一族である藤原清衡である。藤原清衡は、源義家の力を借りて勝利して、東北の実権を握り、奥州藤原氏を開いた。
日本史 · 2024/09/15
院政が始まった11世紀後期、源氏は本格的に東国に地盤を固めていった。1051年から始まった前九年合戦では、陸奥(東北地方の東半分)の俘囚(朝廷に反発する勢力)であった安倍頼時を倒した。安倍頼時を倒したのは、源頼信の子・源頼義と、その子の源義家であり。この時、出羽(東北地方の西半分)で勢力を持っていた清原氏が安倍頼時を倒すのに協力をした。この結果、清原氏が東北で力を持つようになる。
日本史 · 2024/09/14
藤原道長・頼通が栄華を極めた11世紀前期、関東では源氏が勢力を伸ばしていた。そのきっかけとなったのが平忠常の乱である。平忠常は上総(現在の千葉県中部)で反乱を起こした。この反乱の平定に向かったのが源満仲の息子・源頼信であった。彼はこの平忠常の乱を平定して、源氏の東国進出のきっかけを作った。
日本史 · 2024/09/13
承平・天慶の乱は、同年に起こった平将門の乱と藤原純友の乱の2つの乱の総称である。 まず平将門の乱。将門は関東の支配者になろうとした。そこで上野・下野・常陸といった関東の国府を次々と征服し、自らを新皇と名乗った。しかしいとこの平貞盛や藤原秀郷に倒された・...
日本史 · 2024/09/12
天皇は後醍醐→朱雀→村上→冷泉と続くが、後醍醐天皇と村上天皇は摂政・関白を置かない政治を行った。後醍醐天皇の天皇親政を延喜の治、村上天皇の天皇親政を天暦の治という。村上天皇の死後、冷泉天皇以降は再び藤原氏が摂政・関白になる時代になっていく。これに反発したのが義醍醐天皇の子・源高明(*いわゆる源氏ではないである。高明は自分の娘婿を天皇にして、自分が権力の座につこうとした。しかしこの計画が源満仲(*いわゆる源氏)によって、密告され、高明は天皇に謀反を働いた罪で太宰府に流された。これ以後、藤原氏が摂政・関白を独占する時代になっていく。
日本史 · 2024/09/09
大納言・伴善男と左大臣・源信(*後の源氏とは無関係)の権力争いが発端。源信を失脚させようと考えた伴善男は自分が管理していた応天門に放火し、罪を源信になすりつけようとした。しかし調査によって真相が明らかになり、藤原良房によって暴露された伴善男は伊豆に配流されてしまった。これにより摂政の藤原良房の権力は確実なものとなった。
日本史 · 2024/09/08
藤原冬嗣の死後、権力を握るのが藤原良房であった。この時期は藤原氏の権力独占ではなく、橘氏と伴氏といった有力貴族が藤原氏と対立する立場にいた。当時の天皇は嵯峨天皇の子・仁明天皇であったが、藤原良房は権力者である橘逸勢と伴健岑が「仁明天皇を政権から追放しようとしている」というデマを流し、これを信じた仁明天皇は、謀反を企てたという罪で両者を配流されたという事件。
日本史 · 2024/09/05
藤原仲麻呂は恵美押勝の名を賜り、大師にまで登る。しかし後ろ盾であった光明皇太后が死去すると、孝謙太上天皇が自分の看病に当たった僧の道鏡を寵愛し、淳仁天皇と対立したので危機感をつのらせて挙兵するも、太上天皇側に先制され、滅ぼされた。淳仁天皇は廃されて淡路に流され、孝謙太上天皇が重祚して、称徳天皇となった。

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