京都の北朝・足利尊氏の政治は順風満帆というわけにはいかなかった。南朝側では、動乱の初期に北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州に拠点を置いて、抗戦を続けた。
そんな南朝と対抗しながら、尊氏は更に弟の足利直義とも対立していった。
室町幕府は、当初は尊氏と直義による二頭政治を行っていた。しかし、軍事を担当する尊氏が行政を担当する直義のやり方に口を出しようになっていき、両者に政治上の対立が起こった。
その背景には、尊氏の執事である高師直の存在があり、尊氏は弟の直義よりも高師直を信頼していた。その後、相続問題も絡み、戦乱に発展していった。それが1350年の観応の擾乱である。
まず直義が師直を殺すが、これに怒った尊氏が直義を毒殺した。しかし以後も尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三派は、10年余りも離合集散を繰り返した。