1587年、豊臣秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対して入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣を築き、1592年、15万余りの大軍を朝鮮に派遣した。あっという間に漢城・平壌を占領し、更に加藤清正の軍勢は朝鮮と朝鮮の国境辺りまで進軍した。
朝鮮は李舜臣の率いる朝鮮水軍や民衆による義兵、明の援軍などによって巻き返しを図った。次第に戦局は日本にとって不利な状況となったため、現地の日本軍は休戦し、秀吉に明との講和を求めたが、秀吉が強硬な態度を取り続けたため、交渉は決裂した。